SaaS は死んだのか? ポスト生成 AI 時代における価値の再定義

テキスト、画像、動画、音声データを扱うマルチモーダルなサーバーレス RAG を用いたナレッジベース AI エージェントを自社で開発していた中、OpenAI が「Work smarter with your company knowledge in ChatGPT」をリリースした[^1]。その瞬間、私は思った ──「自社の SaaS は死んだ」と。

SaaS is dead ── 私はそんな言葉を最近よく耳にする。しかし、本来の SaaS の定義とはなんだろうか。

概念的に言うなら、SaaS は機能ではなく「価値の継続提供」をプロダクト化した形だ。昔のソフトウェアは「完成品」だった。納品して終わり。SaaS は「生き物」に近い。常に使われながら改良され、顧客との関係を通じて進化していく。だから「ソフトウェアを提供する」こと自体は手段にすぎない。本質は、顧客が成果を出し続けられる状態をどう維持するかにある。

そう、SaaS は「継続的な価値を提供ことが求められる"生き物"」なのだ。

ポスト生成 AI 時代における価値とは

ポスト生成 AI 時代。コンテンツは指数関数的に溢れ、アイデアや知識の価値はいささか低下し、起業のハードルも下がっているように感じられる。ビジネスの価値そのものが、静かに希薄化していく時代。

では、「知識」も「作業」もほぼ無料になるという世界において、「価値を出し続ける」とは一体どういうことなのか。

それは、AI が到達できない領域 ── つまり「AI がやっても同じ結果にならない領域を、継続的に作り出すこと」に他ならない。

もう少し分解すると 3 つある。

1. 文脈を理解して伴走できること

AI は答えを出すのは得意だが、「この状況では何を優先すべきか」はまだ人や組織の肌感が要る。文脈を読む力、組織や市場の"空気"を翻訳する力が価値になる。

2. 他者と関係を築くこと

信頼・ブランド・共同体。AI が模倣できないのは、関係性の「蓄積」そのものだ。 SaaS で言えば、単なるツールではなく「信頼できるパートナー」になれるかどうか。

3. 進化を前提に設計すること

機能を磨くだけではすぐに追いつかれる。「変化を受け入れ、学習して次を出せる仕組み」を作る方が強い。つまり、静的な価値ではなく、動的な価値をどう保つか。

要するに、"何を作るか"よりも"どう変わり続けるか"が価値の中心になる。止まった瞬間に、AI がその場所を埋める。

SaaS の強みは、基盤モデルとは違い、その個人や企業、業界に特化したデータとコンテキストが膨大にある。汎用的な基盤モデルでは得られない、深い文脈理解こそが SaaS の本質的な価値になる。

個別最適化と継続進化

最近、LayerX のエンジニアブログで「AI Agent 時代における『使えば使うほど賢くなる AI 機能』の開発」という記事に巡り合った[^2]。SaaS は死ぬのではなく、より AI Native、Personalized になる必要があるという主張だ。

「AI Native」「Personalized」という言葉の裏にある本質的な価値は ── ユーザーに適応して、時間とともに価値密度を上げていく体験を提供すること。

AI Nativeとは、抽象的なタスクをより具体的なタスクに分解し、実行可能な形に整理することだ。「資料を作る」を「アウトラインを書く」「データを集める」「図を作成する」に分解する。人間の意図を解釈し、実行可能な単位に翻訳する能力である。

Personalizedとは、個人の元々の予定や気分、生活動線などから最適な提案をすることだ。同じタスクでも、朝型の人と夜型の人では異なる時間を提案する。移動が多い日には軽いタスクを。集中できる時間帯には深い思考を要するタスクを。

従来の SaaS は「最適化された共通プロセス」を提供していた。だがポスト生成 AI 時代の本質的価値は、「個別最適を自動で再設計し続ける」ことに移る。

個別最適化を実現する方法として、個人や組織ごとにモデルを FineTuning することが理想に思えるかもしれない。しかし、基盤モデルを FineTuning するのは、コスト面でも技術面でも現実的ではない。

では、どうするのか。

答えは、膨大なコンテキストを取得し、アルゴリズムで最適化して LLM に伝えることだ。

ユーザーの行動、選択、文脈を蓄積する。そのデータからパターンを学習し、アルゴリズムを更新する。そして、その最適化されたアルゴリズムが、さらに精緻なコンテキストを LLM に提供する。このサイクルが回り続けることで、SaaS は進化する。

それは、人間が夢を見るように、夜ごと記憶を整理し、自己を再構築していくプロセスに似ている。AI は静的な知識を持つのではなく、動的に学習し続ける。AI は夢を見ない。だが、この学習サイクルこそが、SaaS の「夢」なのだ。

SaaS という"生き物"が受け入れられるためには、人に合わせて「変わる」── いや、「変わり続ける」必要がある。OpenAI、Anthropic、Google が次々とモデルを更新し続けるのも、この「変わり続ける」ことの重要性を示している。

「再設計」という名の進化

再設計── この言葉が核心だ。

一度設計して終わりではない。使う人の癖、文脈、その日の気分や体調。組織の状況、市場の空気。それらすべてを読み取りながら、静かに、しかし確実に形を変えていく。

従来のソフトウェア設計は、完成を目指した。要件定義、設計、実装、テスト。そして納品。線形のプロセス。

だがポスト生成 AI 時代の設計は、円環的だ。観察、学習、適応、再観察。終わりのないサイクル。

再設計とは、システムが自己を観察し、自己を更新し続けることだ。ユーザーの変化を捉え、組織の成長を読み取り、市場の動きに呼応する。

それは生命の進化に似ている。環境に適応し、変異を重ね、次世代へと引き継ぐ。静的な完成ではなく、動的な生存。

思考リソースを外部化する

この再設計を実現する鍵は、思考リソースを外部化することだ。

私たちは日々、タスクを Notion やツールに書き込む。だが、それらは書かれた瞬間に埋もれていく。ページの奥深く。データベースの海の底。後になって「こんなのもあったのか」と気づく。

そのタスクを、個人が求める粒度に分解する。大きすぎず、小さすぎず。その人の集中力、体調、気分に合わせた単位に。

そして、その日のエネルギーと文脈を読み取り、適切な時間帯に提案する。カレンダーに自動で埋めるのではない。選択肢として提示するまで。

確定するのは、いつも人だ。

例えば、タスク管理を考えてみよう。

私たちはタスクをツールに書き込む。だが、本当に必要なのはタスクの「羅列」ではなく、「今日、自分が何をすべきか」という計画の外部化支援だ。

そのとき、AI は何ができるのか。

答えは単純ではない。自動でカレンダーを埋めることではない。それは押し付けだ。

そうではなく、「あなたの今日のエネルギーと文脈を理解した上で、適切な選択肢を提案する」ことだ。

AI はあくまでも提案まで。最後は人が選択する。

この境界線が、AI との共生において最も重要な設計思想になる。

人間を超えない、でも人間を理解する

ポスト生成 AI 時代における SaaS の核心は、「人間を超える」ことではない。

「人間を理解する」ことだ。

理解とは何か。それは、表面的な行動パターンを学習することではない。

なぜその人はこのタスクを後回しにするのか。なぜこの時間帯に集中できないのか。なぜこの判断を下したのか。

その背後にある、言語化されない文脈を掴むこと。

そしてそれを、押し付けることなく静かに、そして確実に次の提案に反映させること。

組織という生態系

個人のデータが積み重なると、組織の生態系が見えてくる。

「このチームは午前中に Deep Work が集中する」「このプロジェクトは締切前に必ず文脈切替が増える」「この判断パターンは、過去の成功事例と酷似している」

組織の意思決定は、個人の意思決定の集合ではない。でも、個人の実績というデータは組織の意思決定の材料になりうる。

そこに、AI Native SaaS の次のフロンティアがある。

止まった瞬間に、終わる

"何を作るか"よりも"どう変わり続けるか"。

これがすべてだ。

機能を磨き上げることは重要だ。でもそれは、ゴールではない。変化を受け入れ、学習し、次を出せる仕組みを作ることこそが、ポスト生成 AI 時代の生存戦略になる。

静的な価値は、すぐにコモディティ化する。動的な価値 ── 変わり続ける能力 ── だけが、AI に埋められない領域として残る。

SaaS は死なない。

ただ、止まった SaaS が死ぬだけだ。

生き物として、呼吸し、進化し続ける SaaS だけが、この新しい時代を生き残る。

参考文献

[^1]: OpenAI. "Introducing company knowledge" [^2]: LayerX. "AI Agent 時代における「使えば使うほど賢くなる AI 機能」の開発"